独り言のようなメモ(k

苺ましまろ」を中心に、「ひだまりスケッチ」「ARIA」を読む

①虚構を虚構としてわざと見せてしまう試み(メタフィクション的)
苺ましまろOVA1巻ラストシーンによる客観視(「ユートピア」という特性の言語化
→キャラクターによる作品の分析という荒業
②劇中に暗に示される浜松→アンリアル(虚構の浜松、実在しない土地)
平和、不自然なまでに平和(3作の共通点)→ユートピア
ネオ・ヴェネティアはヴェネティアのシミュラークル的存在たりえるか?→不明白。
苺ましまろにおける「浜松」とARIAにおける「ヴェネティア」とひだまりスケッチにおける「芸術科」は同じ存在である
→実在する場所には描かれているような平和は無い
→「異化」(乱暴な言い方、ロシア文学的?w フォルマリズム的?w)
③読者の優位性
見る/読む側がまるで「保護者」あるいは「先輩」として読めるという特性
→現実にある「苦悩」を見せていない。
→読者、視聴者の「理想」=「ユートピア」に対する憧れと卑下する感情によるもの
※「所詮アニメ(漫画)」という感情。
④恐怖。
3作とも「あるはずのないもの」を描く。
しかし明らかに現実を下敷きにした設定がある(ARIAは突き抜けているが・・・)
ユートピアを描くゆえの怖さ。
ユートピア文学として=理想社会を描くことで現実の世界の欠点を照らす鏡としての意義。

結論「苺ましまろ」はホラーである。

何故なら、現実と理想との溝を描かずして浮き彫りにしている恐ろしい作品だからである。
読者、視聴者はこんな理想世界が存在しないことを知っている。
その核心を登場人物が突いてしまうという恐怖。
「あの人はきっと死んでいないはずだ」と信じて行方不明者を探していたら遺体が出てくるような怖さを持った作品なのである。